リトグラフは、版画の中でも「平版(へいばん)」に分類される技法です。最大の特徴は、水と油が反発し合う化学反応を利用している点にあります。他の版画のように版を削ったり腐食させたりする必要がなく、描いた筆致がそのまま印刷されるため、独創的で直接的な表現が可能です。複雑そうに見えますが、基本の仕組みを理解すれば、初心者でも奥深い作品づくりを楽しむことができます。
リトグラフのやり方は「油で描いて水で分けて刷る」流れで理解できる
リトグラフの制作工程を一言で表すと「水と油の仲の悪さを利用したパズル」のようなものです。版の上に油分を含んだ材料で絵を描き、その後に特殊な処理を施すことで、油を弾く場所と引き寄せる場所を作り出します。このシンプルな科学的根拠に基づいた一連の流れを把握することで、リトグラフ特有の美しい質感を思い通りにコントロールできるようになります。
版に描いた部分だけがインクを受ける
リトグラフの最大の魅力は、版に凹凸を一切作らないことにあります。木版画のように木を削ったり、銅版画のように金属を酸で溶かしたりする必要はありません。その代わりに、版の表面に「親油性(油を引き寄せる性質)」と「親水性(水を引き寄せ、油を弾く性質)」という異なる二つの性質を持たせます。
まず、油性のクレヨンやインク(解墨)を使って版に絵を描きます。描いた部分は油を好む性質になります。その後、版全体に化学的な処理(エッチング)を施すと、描いていない部分は水を強く引き寄せるようになります。印刷の際、版を水で濡らすと、描いていない部分には水の膜ができます。そこに油性のインクを乗せたローラーを転がすと、水がある場所にはインクがつきませんが、油性で描いた部分にだけインクが吸着します。
この仕組みがあるからこそ、鉛筆で描いたような繊細なタッチや、筆で描いた掠れ、さらには水彩画のような滲みまでもが、そのまま紙に写し取られます。描き手の筆跡がダイレクトに反映されるこの性質が、多くのアーティストに愛される理由です。
水分管理で刷りの安定が変わる
リトグラフ制作の現場で、最も頻繁に行われ、かつ技術を要するのが「湿し(しめし)」と呼ばれる水分管理の作業です。インクを乗せるローラーを動かしている間、版は常に一定の湿り気を保っていなければなりません。もし版が途中で乾いてしまうと、インクを弾くはずの場所(非画線部)に油性のインクが付着してしまい、画面が真っ黒に汚れてしまいます。これを「地汚れ(じごれ)」と呼びます。
スポンジを使って版を濡らす際は、単に水をかければ良いというわけではありません。表面に薄く、均一な水の膜を作る必要があります。水分が多すぎると、今度はインクが版に定着せず、色が薄くなったり、インクが乳化して絵柄がぼやけたりします。逆に少なすぎると汚れやすいため、その日の気温や湿度に合わせて、絶妙なバランスで水を補給し続けなければなりません。
プロの制作者は、ローラーを転がす音や版の光り具合を見て、水分の過不足を瞬時に判断します。一見すると地味な水の拭き取り作業ですが、これが完璧にできて初めて、何枚刷っても同じクオリティの作品を安定して仕上げることができます。リトグラフは、水とインクの勢力争いをコントロールする、極めて繊細な作業といえます。
下準備の丁寧さが仕上がりを左右する
リトグラフは「準備が8割」と言われるほど、描き始める前の工程が重要です。使用するアルミ板などの版材には、製造過程や保管中についた目に見えない油分や指紋が付着していることがあります。もしこれらが残ったまま描き始めると、描いていないはずの場所から余計なインクが出てくる原因になります。そのため、まずは専用の研磨剤や脱脂剤を使って、版を完璧にクリアな状態に整えます。
また、描画が終わった後の「エッチング(製版)」と呼ばれる化学処理も、後の仕上がりを大きく左右します。ガム液と呼ばれる薬品を塗り、描いた油分を版に定着させると同時に、描いていない部分を親水性に変える作業です。この処理が甘いと、いざ刷り始めたときに絵柄が消えてしまったり、逆に絵が太って真っ黒になってしまったりすることがあります。
薬品を塗るタイミング、乾燥させる時間、そして余分な薬品を拭き取る丁寧さ。これらの一つひとつに手を抜かないことが、思い通りの線を紙に残すための最短距離となります。リトグラフは即興的な描き心地を楽しめる一方で、それを支えるための堅実で論理的な準備が不可欠な技法です。
重ね刷りは位置合わせが要になる
多色刷りのリトグラフを作る場合、色ごとに異なる版を作成し、一枚の紙に順番にインクを重ねていきます。このとき、最も重要かつ困難なのが「見当(けんとう)」と呼ばれる位置合わせです。1ミリでもズレが生じると、色が重なり合わず、輪郭が二重に見えたり、意図しない隙間ができたりして、作品のクオリティを損なってしまいます。
位置合わせを正確に行うために、版の端に「トンボ」と呼ばれる印をつけたり、プレス機に専用のガイドを設置したりします。また、プレス機を通す際の高い圧力や、インクの重なりによって、紙はわずかに伸び縮みします。そのため、紙をあらかじめ湿らせておく「湿紙(しめがみ)」の手法を取る場合は、全ての版を刷り終わるまで紙の湿度を一定に保つ管理も必要になります。
色が重なり合うことで、新しい色が生まれたり、深みのあるテクスチャが現れたりするのがリトグラフの醍醐味です。その魔法のような効果を最大限に活かすためには、精密な位置合わせの技術が欠かせません。神経を使う作業ではありますが、全ての版がピタリと重なり、理想の色調が完成した瞬間の喜びは、リトグラフ制作者にとって何物にも代えがたいものです。
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リトグラフ制作におすすめの道具と材料
リトグラフを始めるには、専門的な画材を揃える必要があります。かつては巨大な「石版石」が使われていましたが、現代では軽量で扱いやすいアルミ板が主流です。信頼できるメーカーの道具を選ぶことが、失敗を防ぐ第一歩となります。
| カテゴリ | 商品名 | 特徴 | 公式サイトリンク |
|---|---|---|---|
| 版材 | リトグラフ用アルミ板(砂目立て済) | 表面に細かい凹凸(砂目)があり、インクの乗りが良い。 | 文房堂 |
| 薬品 | 製版ガム(リトガム) | 描画部を安定させ、非描画部を親水性にする必須薬品。 | 造形センター |
| インク | シャルボネール リトグラフインク | 世界中のプロが愛用する、発色と粘りのバランスが良いインク。 | 文房堂 |
| ローラー | 中丸リトグラフローラー(ゴム製) | 均一にインクを乗せるための重量感ある本格ローラー。 | 造形センター |
| 描画材 | リトクレヨン(コーン社製等) | 油分が調整されており、リトグラフ特有のタッチが出せる。 | 文房堂 |
平版用アルミ板(リトグラフ金属板)
現代のリトグラフ制作において最も一般的な版材です。表面に「砂目立て(グレイン)」と呼ばれる非常に細かい凹凸加工が施されており、これが保水性とインクの定着を助けます。石版石に比べて軽く、収納も容易なため、個人制作から教育現場まで広く普及しています。
リト液(ガム液)
アラビアゴムを主成分とした薬品で、製版の要となります。描画が終わった後の版に塗り広げることで、描いていない部分に保水性の膜を作り、油を弾く性質を与えます。酸の濃度を調整することで、絵の出具合をコントロールする重要な役割も担っています。
平版用インク(リトインク)
リトグラフ専用の油性インクは、他の版画インクに比べて粘り気が強く、顔料の密度が高いのが特徴です。水と反発する力が強く設計されており、版の上で繊細な網点を再現するのに適しています。シャルボネール社などの歴史あるメーカーのものが特に信頼されています。
平版用ローラー(インキング用)
リトグラフのローラーは、版に均一な圧力をかけるために、ある程度の重さと硬さが必要です。ゴム製のものが主流で、直径が大きいものほど一度に広い面積を塗ることができ、ムラになりにくいです。手入れを怠るとゴムが劣化するため、使用後の洗浄が非常に重要です。
インク練り板とヘラ**
インクを使いやすい硬さに練り上げ、ローラーに均一に付着させるための台です。通常、厚手のガラス板や大理石の板が使われます。ステンレス製のヘラ(インクベラ)を使ってインクを練り、空気を抜きながら滑らかに整える作業は、刷りのクオリティに直結します。
描画材(リトクレヨン・ダーマトグラフ等)
版に絵を描くための道具で、強い油分を含んでいます。リトクレヨンは硬さが数段階に分かれており、鉛筆のような細かい線から、ベタ塗りまで使い分けます。また、液体状の「解墨(かいぼく)」を筆で使えば、水墨画のような掠れや滲みを表現することも可能です。
平版用プレス機(バレン代用も含む)
リトグラフは、版と紙に強い垂直荷重と摩擦をかけてインクを転写します。そのため、大型のスクレーパー(擦り付け棒)を備えた専用のプレス機が必要です。家庭で手軽に行う場合は、小型のプレス機や、力一杯擦るバレンでの代用も可能ですが、本来の階調を出すには専用機が理想的です。
リトグラフ制作の手順と失敗しやすいポイント
リトグラフの制作は、化学的なプロセスを経て進んでいきます。一つの工程でのミスが、最終的な印刷結果に大きく影響するため、各ステップの目的を理解して進めることが成功への近道です。ここでは、初心者が特につまずきやすいポイントを重点的に解説しながら、具体的な手順を追っていきます。
版材の脱脂と下処理を整える
まず最初に行うのは、版の表面を完全に「清潔」にすることです。アルミ板の表面には、酸化防止の皮膜や、目に見えない手の油などが付着しています。これらがあると、描画材がうまく定着しなかったり、逆に描いていない場所が親油性になって汚れたりします。
専用の脱脂液(クレンザーのようなもの)を使い、スポンジで版を磨き上げます。この際、水が版の表面で弾かれず、均一な膜となって広がるようになれば脱脂完了のサインです。脱脂が終わった後は、版の表面に絶対に素手で触れないように注意してください。指一本触れただけで、その指紋が将来のインク汚れとなって現れてしまいます。
油性描画材で絵柄を作る
下処理が終わったら、いよいよ描画です。リトクレヨンや鉛筆、筆を使って自由に絵を描きます。ここでの注意点は、描画材に含まれる「油分の量」を意識することです。薄く描きすぎると後の製版工程で絵が消えてしまうことがあり、逆に厚く塗りすぎると、刷っている間にインクが広がり、細部が潰れてしまうことがあります。
特に、手の脂が版につかないよう、手の下に紙を敷いて作業するのが鉄則です。リトグラフは非常に正直な技法なので、意図しない汚れもすべてそのまま刷り出されてしまいます。描画は楽しく自由に行いつつも、版の清浄さを保つという冷静な視点を忘れないようにしましょう。
エッチングで親水と親油を分ける
描き終わった版に「ガム液」を塗り、化学的に定着させるのがエッチングの工程です。ガム液に含まれる成分が、描画材の油分を版に強く結合させ、同時に描いていない金属の表面に「硝酸塩」などの親水性の層を作ります。
この工程でよくある失敗は、ガム液を塗った後の「拭き取り」が不十分なことです。ガム液が厚く残りすぎると、それが乾燥したときに頑固な膜となり、本来インクが乗るべき絵柄の部分まで覆い隠してしまいます。逆に拭き取りすぎて膜が薄くなると、非描画部の親水性が保てず、地汚れが多発します。ネル布などを使って、薄く均一に、鏡面のように滑らかに拭き上げるのがコツです。
湿し→インキング→刷りで印刷する
いよいよ印刷です。まず、版に残っている古い描画材(クレヨンなど)を溶剤で洗い落とし、代わりに薄く油(アスファルトムなど)を引いて「インクの受け皿」を作ります。次に、版を水で湿らせます。ここからはスピードとリズムが大切です。
「版を濡らす」→「ローラーでインクを練る」→「版にローラーを転がす」という作業を繰り返します。インクが十分に絵柄に乗ったら、プレス機に紙をセットし、圧力をかけて刷り取ります。失敗しやすいのは、ローラーを転がす力が強すぎて版を傷つけたり、逆に弱すぎてインクが乗らなかったりすることです。版の上の水分の光り具合をよく観察し、インクが「シュッシュッ」と心地よい音を立てて乗っていく感覚を掴んでください。
リトグラフのやり方を作品づくりに落とし込むまとめ
リトグラフは、一見すると複雑な化学実験のように思えるかもしれません。しかし、その根底にあるのは「水と油が反発し合う」という極めてシンプルな自然界のルールです。丁寧な下処理を行い、水分の管理に気を配り、そしてインクを丁寧に乗せていく。この一連の動作を積み重ねることで、他の技法では決して得られない、空気感までをも含んだ豊かな表現が可能になります。
最初は失敗して色が潰れたり、版が汚れたりすることもあるでしょう。しかし、その失敗の原因の多くは水分量や製版の強弱といった、目に見えるプロセスのどこかにあります。一つひとつの工程を丁寧に見直していくことで、必ず自分の思い通りの線を引き出せるようになります。リトグラフという奥深い技法を味方につけて、あなたの表現の幅をさらに広げてみてください。
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